達成感を味わえたフルート演奏

            風里谷 直

 会場の拍手が止んで、ピアノの伴奏が始まった。何時もの私なら緊張でかたくなってしまうのが、冷静に自分の音を確かめながら演奏ができた。そこには聴衆は見えず、自分独りが伴奏に快く乗って、まるで母親の懐にだかれてでもいる気分で演奏をしている自分がいた。こんな経験は初めてであった。

 発表会で演奏したい曲を、フルート教室の

大竹先生に告げたのは、確か発表会開催予定日の一年ほど前だったと記憶している。

 その曲は、宮城道雄作曲、宮城 衛編曲「春の海」である。

 平成十八年の秋に、作曲者が「我が古里は鞆の浦」と、常に父祖の地への思いを馳せて作曲したと言われる福山市鞆の浦への旅をして曲想を味わった。その地はかって、朝鮮通信使の接待所が置かれた瀬戸内海の景勝地であり、今でも昔の面影が色濃く残っている。曲想を味わい、作曲者と同じ日本人として是非演奏したいと思い立った。

 この曲はレント〔遅く〕から始まって、少し早い躍動感のあるテンポになり、更にアレグロ〔快活に早く〕となり、

最後はまた出始めのテンポに戻るのだがテンポ音痴の私には苦手な曲である。

 そこで、フルート仲間の本間さんに頼んで、パソコンソフトを使って伴奏音と演奏音とそれを合せた音をCDに入れたものを作成してもらう事を思いついた。彼は快く承諾してくれて、三月末にはそれを送ってきた。私の演奏能力を知っているため、本来あるべきテンポのものから少しずつテンポを落とした三種類を一枚のCDへ入れておいてくれた。

 早速一番遅いテンポのもので練習を始め、それに慣れてからもう一つ上のランクへと進めることができた。その内に恒例になっている教室の夏の合宿に参加するために、合宿での課題曲の練習に入り、春の海の練習は未完成なまま中断してしまった。本格的な練習は、合宿を終えた八月になってからで、月に一度のレッスンを二度受けて、先生もまあそんなところでと納得して下さったのでこれで練習を重ねようと思っていた。

 しかし、私の春の海を耳に蛸が出来るほど聞かされている妻が私の演奏テンポが遅いと言いだし、テンポアップを試みた。何分、七十八歳の私にはそれは無理な事であった。発表会の四週間位前のレッスンでは、先生から私の演奏が崩れてしまっているとの指摘を受けた。急遽、演奏可能な自分ペースでの私なりの演奏を作り上げ練習に励んだ。

 その頃に、仕事で訪問した折の雑談で、客が尺八を習っていたので春の海の話になった。そもそも邦楽の社会では、尺八と琴との合奏となると常に琴がリードする事になっていると教えてもらった。以前、宮城道雄の琴と吉田雅夫のフルートの合奏をした戦前のSPレコードを大竹先生から聴かせていただいた事があったが、琴は伴奏としてではなく、リーダー的な演奏であった。私が所有している邦楽のCDのラベルにも琴の演奏者名が書かれてあり、次に尺八の演奏者名が書かれ伴奏の文字は見られない。従ってこの曲はピアノ伴奏ではなく、ピアノがリードしてゆくように作られている事に気がついた。このために日本人演奏家がこの曲をあまり選ばないように思える。

 発表会の前日にピアノを担当して下さる、

和田先生とのゲネプロ〔演奏打ち合わせ〕が教室で行われた。伴奏の名手でいらっしゃる和田先生とは一度の演奏で私は納得出来た。

 私は、仕事を息子に任せ、しっかり練習が出来たことで、初めて達成感が味わえた。

 後日、当日の演奏のCDを大竹先生から頂いた。聴いて見ると私の演奏は決して上手くはない。早いパッセージは指の動きが悪くスムースな演奏となっていない。しかしこれが私の演奏の限度であると納得した。

 昨年末で税理士業を廃業し、時間は充分にある老後の生活になった。好きな事に大いに気を入れることができて楽しみも増す。この上は仕事の傍らの趣味でなく、自信がつくまで練習し、達成感を味わいたいものだ。このような老後が送れる幸せに感謝している昨今である。

       平成二十年一月十八日記

 

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